私たちの体は機能的に使う(理にかなった動き)ことができれば、不快感や痛みのない快適な状態を維持しつづけて生活することが可能だと考えています。
たとえオーバーワーク(使い過ぎ)が続くことで身体に負担が掛ったとしても、機能的な動きが疲労を全身に分散させてくれるため、休息をとることで疲労は取り除かれ易くなり、翌日にはまたリフレッシュした身体で1日を過ごすことができるでしょう。そんな方は、自身の体に対し信頼と自信で不安のない日々を過ごすことができると思います。
しかしそうでない機能的に使えない体は、動きに繋がりやリズムのない偏った使い方となり、部分的(筋肉や関節など)にかかる負担を大きくすることが日常的にすっきりとしない違和感となって現れ、時にそれは痛みを伴うことに発展することもあります。
また機能的でないことは、疲労を回復に向かわせることをも妨げることとなります。休息を取っても抜けきらない疲れのため、常に不安と隣り合わせの日々を送らなくてはなりません。
痛みや違和感は日常の身体の使い方の問題だけから起きるものではありませんが、立ったり座ったり、歩いたり、物をを持ったり運んだり下ろしたりと一見何てことのない動作から見直してみてはいかがでしょうか?
当院ではそうした日常特に意識をしないような動きの中にも、その辛い原因の一部が隠されているとも考え、「身体の使い方を見直す」ことのご提案も積極的に整体の中に取り入れるようにしています。
機能的な身体に付いて
習字、ピアノ、バレエ、スポーツなどなど。。。
習いごとは子供のころからの方が良いとされていますね。
子供の頃身に付いたものは忘れない、一生ものだと。。。
習いごととかでなく日常の様々な動作なんかも、だれに習うこともなく子供の頃は上手に行えていたと思います。自然と機能的に身体を動かすといったことが、しっかりと身に付いていたんでしょうね。
この上手に行えた機能的な身体の動きとはいったいどういったものなのか?
どのよう思われますか?
私たちは日頃日常の動作やスポーツなどをするときに、ある目的(意思)を持って、意識的にも無意識的にも行動に移しています。そして、そのある目的(意思)をこうすれば達成できるというイメージを、これまた意識的にも無意識的にも持つことで行動に転化していると言えると思います。
その上で機能的な身体の動きとは、ある動きをしようと試みた時に、そのイメージ通り実行することが出来て、さらにその過程で身体(筋肉や関節、骨、内臓、精神的な全てに)にかかる負担を最小限に抑えることができる動きではないかと思っています。
簡単にいえば思った通り楽に動ける身体です。
ただそういった機能的な動きも、なぜかいつ頃からなのか、少しづつ失われて来てしまっているようです。
子供の頃のあの軽い身体は、「一生もの」と思っていたのに。。。。です。
機能的な身体の動きが失われた理由って?
どうして失われはじめていったのか?
ほんの一例でではありますが、一つにこの私たちの過ごしている便利になりすぎた環境に問題があると思っています。
私達の身の回りにある便利な製品や便利なサービスは、私達の生活を快適にしてくれることが前提に作られていると考えていました。
面倒だな。。。と思っていたことは、今ではその大半が面倒なことでは無くなりましたので、やはり生活は快適になったのだと考えてもいいかと思います。
ただしもう一方でこうした便利な製品やサービスで、生活が快適になることが、私たちの身体をも快適に楽にしてくれるもの、とも考えていたと思います。
ただ残念なことにその便利さが、私たちから日常の大切な動きを奪ってしまうこととなり、大半の人にとってそれが機能的な動きをくるわせる原因となってしまっているように感じています。
単純な反復するような動きであったり、それが無かったころは行えていた全身を協調させて行うような動きは、部分的な動きで済んでしまうようになり、くるってしまった身体の動きは機能的とは言えない、ぎこちない動作となってしまいます。
地球上で暮らすあらゆる動物の中で、ぎこちない機能的でない動きでも生きて行けるのは人間だけかもしれません。
もちろん便利なものやサービスが悪いわけではありませんし、それらを使用している人に責任があるわけではないのですが、そんなみんなのために考え出されたものが、私たちから大事なものも奪っている部分があるようにも感じられて仕方がありません。
当院では
その痛みや不快な感覚が、日常のさりげない動作などにも原因が潜んでいると考え、基本的な立ったり座ったりの動作から、その方がよくされる動作などや姿勢などのチェック、調整も行い、自身のお体に自信を持って過ごしていただけるよう施術にあたっています。
まずはマイナスからゼロ、そしてプラスへ
|